第1章 謀 計 発 覚


 第49号  1991年2月18日

日蓮正宗自由通信同盟

僧侶たちは布教をしないので権威だけが頼り
その為に猊下の名でウソをつき信徒を処罰する
 〈逢難シリーズ・第9回〉

 小笠原が僧籍に復帰したのが、昭和二十七年四月の立宗七百年大法要の直前でないことは、宗門人のほとんどが知っていながら、今日まで創価学会側の知るところとならなかった。
 この事実は、出家の者たちが自分たちの共通利益のためには、情理を超えて結束することを示している。出家が在家の上に位置したいという気持は、まさに本能的なものである。ことに布教活動をしない僧侶集団は、その位置関係以外に自己の存在の保証を得られないことを敏感に知っている。従って、在家集団の台頭に実に臆病になり、過剰な反応を示すのだ。
 今回の創価学会に対する表立っての強権的な一方的処置、裏にまわってのマスコミを頼りながらの切り崩しは、その臆病な本質をさらけ出したものといえる。
 それでは、敗戦直後の小笠原の僧籍復帰が宗内において周知のことであったことを、年代をさかのぼりながら見ていきたい。それを確認することは、僧侶がみずからの権威を守るためには、事実をねじ曲げても信徒を処罰するという、その本質に根ざした卑怯を暴く作業でもある。
 狸祭の前年の昭和二十六年十一月十三日、徳島県の敬台寺において、同寺の再建落慶法要がおこなわれた。この時の模様を宗門機関誌の『大日蓮』(昭和二十六年十一月号)が報じているが、「本玄寺小笠原慈聞」はその法要の来賓の最上席として記録されている。その際、小笠原以外に四名の僧侶が列席している。その四名とは、藤川徹玄、秋山円海、秋山慈本、河辺慈篤である。
 昭和二十五年の『大日蓮』八月号は、「小笠原慈聞著」の『法華経玄理一念三千の法門』という本の宣伝を出している。広告文の中には「多年のうん畜を傾けて法華経の秘蔵を開きたる力作、その内容は本宗傳統たる教観の優秀性を主張する」といった箇所がある。小笠原の肩書は「元日本大學宗教科講師、世界之日蓮主幹」となっている。
 昭和二十五年の『大日蓮』三月号は、讃岐本門寺の梵鐘が再興されたことを報じている。その記事には、二月五日の撞初式に小笠原が出席したこと、その式にあって「貫主」に続いて梵鐘をついたことが書かれている。
 同じく日蓮正宗の機関紙である『宗報』の昭和二十二年九月号は、「美濃町だより」と題する小笠原の投稿を載せている。そこには本玄寺において八月十八日に法会がおこなわれ、組寺の四名の住職が来会、「小笠原主管」が日正上人の追想を話したことが記されている。
 また同号には「讃岐行」という「細井」(のちの日達上人)署名の一文が載せてあり、讃岐本山本門寺の虫払い法要について書かれている。これには本門寺一門の僧侶以外に、小笠原ほか四名の僧が訪れ、参列している。小笠原はその時、説法を皆の前でおこなっている。
 昭和二十二年四月二十八日付をもって、宗会議員の選挙結果が発表された。『宗報』(同年六月号)にその詳細が報じられている。二十一名が立候補して十六名が当選したが、小笠原は四十四票を獲得して十七位の次点に泣いている。宗会議員に立候補していたのであるから、日蓮正宗内で小笠原の復帰を知らぬ者などいなかったということになる。
 創価学会側に宗門より伝えられた「昭和二十七年四月五日に小笠原が僧籍復帰した」ということが、いかに詐術的であったかということがわかる。
 昭和二十一年六月十五日発行の『宗報』第二号(何月号という表示はない)には、「讃岐本門寺一行の登拝」と題する記事が掲載されている。この時、讃岐本門寺一行を歓迎する日満上人猊下の小宴がもたれたが、それには小笠原も同席している。
 「同夜六時より法主上人御招待の小宴あり此日東京より這回特赦に依り復帰された小笠原慈聞師も大聖教會總代岡本涙翁、鈴木杢吉兩氏と共に登山して席に加はり」(『宗報』第二号抜粋)
 と記述されているのだ。「特赦に依り復帰」と書かれていることに注目しなければならない。
 いったい小笠原が、昭和十七年九月十四日の擯斥処分の後、僧籍復帰になったのはいつなのか。昭和二十一年五月十五日発行の『宗報』第一号が小笠原の復帰を公告している。

   令第二二號
香川縣三豊郡下高瀬村   
元大僧都  小笠原慈聞
右者宗制第三百九十四條及同第三百九十五條ニ依リ特赦復級セシム
昭和二十一年三月三十一日
管長  秋山日滿

   特赦理由書
右者昭和十七年九月十四日宗制第三百八十九條ノ一同條ノ三ニ依リ擯斥處分受ケタルモノナルモ其後改悛ノ情顕著ナルヲ認メ宗制第三百九十五條ニ依リ復帰、復権、復級セシムルモノナリ

 小笠原の僧籍復帰は、敗戦後間もない昭和二十一年三月三十一日に、「令第二二號」としてすでに示達されていたのだ。前年の昭和二十年六月、小笠原に悩まされ命をけずる思いをされた日恭上人が、大客殿焼失に際して亡くなられてから一年も経っていない。
 日蓮正宗の戦後が、戦時中の大謗法を悔い改めることなく始まったことを象徴して余りある小笠原の復帰であった。
 昭和二十一年三月「令第二二號」が出され小笠原が特赦復帰しているにもかかわらず、宗門みずからの体面を守り戸田会長を罰するためだけに、昭和二十七年四月に「令第三十一號」として、重複して小笠原の特赦復帰を猊下名でおこない、宗門機関誌『大日蓮』に捏造の発表をおこなったのである。憎むべき出家の傲慢である。
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