第1章 謀 計 発 覚


 第48号  1991年2月17日

日蓮正宗自由通信同盟

小笠原は人生の終章で戸田会長に敬服した
その小笠原を目覚めさせたのは狸祭の強折だった
 〈逢難シリーズ・第8回〉

 創価学会の青年部を中心とした宗門に対する法論と説得によって、状況は徐々に変わってきた。
 宗会の三項目の処罰(謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止)の要求は、ついに実現に至らなかった。七月二十四日、すべてを収拾すべく日昇上人猊下より戸田会長に「誡告文」が出された。それには、
 「宗内の教師僧侶は白衣の沙弥に至るまで総て予が法類予が弟子である若し其れ此の教師僧侶を罵詈し侮辱するならば法主たる予が罵詈され予が面に唾されるものと身に感じ心をいためているのである」
 と、出家の者たちを、仏法の正否を超えてかばってみせ、さらに大講頭については、
 「尚法華講大講頭の職に於ては大御本尊の宝前に於て自ら懺悔して大講頭として耻ずるならば即座に辞職せよ若し耻じないと信ずるならば心を新たにして篤く護惜建立の思をいたし総本山を護持し益々身軽法重死身弘法の行に精進すべきである」
 と述べている。
 これに対して戸田会長は、「御詫状」を奉呈している。「御詫状」とはいえ、その内容は、宗内の謗法を断ずる意欲に満ちたものであった。
 「只宗内に於いても余りに謗法に傾き過ぎたり大白法の信奉に惰弱なる者を見る時、況や宗外の邪宗徒をせめる時は宗開両祖の教を胸に深く刻むが故に、決定的な闘争になる傾きがあるのであります。これが行き過ぎのなき様に深く会員を誡めて指導致しますが『護法』の精神に燃ゆる所生命を惜まぬが日蓮正宗信者なりとも亦日夜訓えて居ります為に、その度を計りかね名誉も命も捨てて稍々もすれば行過ぎもあるかも知れませんが、末法の私共は十界互具の凡夫であり愚者でありますから宏大の御慈悲をもつて御見捨てなく御指導下さる様重ねて御願いします」
 言葉丁寧な中にも、断固たる決意がうかがわれる。また、大講頭職についても、
 「誡告の御文に『恥ずるならば大講頭職を辞せよ』と御座居ましたが、猊下の宸襟を悩まし奉つた事は恐れ多いと存じますが宗開両祖の御金言には露ばかりも違わざる行動と信じます故に、御本尊様の御前にして日蓮正宗の信者として自ら恥じないと確信し大講頭職は辞しません」
 と、一歩も引く気配すら見せていない。言外に仏法上の正邪を行動規範としない、大聖人の仏法を忘れた宗門に対する憤りすらただよわせている。
 七月二十六日、創価学会会長・戸田城聖名で、
 「全学会員の御僧侶に対する“狸祭事件”に関しての闘争を停止すべき事を命ずる」(一部抜粋)
 との「行動停止命令」が出された。
 ところが小笠原は、創価学会戸田会長以下幹部に対する告訴をおこなっていた。九月二日、国家警察本部富士地区署は、戸田会長以下十二名に出頭を要請。まず和泉覚理事(当時)は同日から丸一日、戸田会長は翌日から丸一日、事情聴取のため留置された。
 これは、小笠原が、自分が面倒を見ていた(寺の一部を貸し与え開業させてやっていた)医師にウソの診断書をつくらせ、暴行事件をデッチ上げたことによる。また小笠原の弁護士は、戦中より親交のあった三宅重也という人物であった。戦時中、日蓮宗身延派に所属していた三宅は小笠原とともに、日蓮宗の翼賛的合同を策して積極的に暗躍していたのであった。
 この小笠原に対して日昇猊下は、九月九日「誡告文」を送ったが、小笠原はそれに対し「人権蹂躪」であると告訴をチラつかせて、文書をもって宗門すらも脅しにかかった。
 この時の文面は公表されていないが、小笠原にしてみれば、昭和二十一年三月に僧籍復帰(筆者注 次号詳述)していたものを、なんの都合か昭和二十七年四月に復帰したことにされ、そのうえ、誡告までされてはかなわぬといった気持ちがあったのだろう。宗門も弱味を握られ侮られたといえる。
 しかし、この小笠原を細井庶務部長は、小笠原の自坊である岐阜県本玄寺において説得した。その時、本玄寺の檀信徒も、小笠原が猊下まで告訴に及んでいる事態を初めて知り、小笠原の非を責めた。孤立した小笠原はついに謝罪し、一切の告訴を取り下げたのであった。
 が、宗門はこれだけのことをした小笠原に対して、なんら実質的な処分を下さなかった。ここにも僧籍復帰の怪が尾を引いていると思われる。
 ところでその後、小笠原はどうなったか。小笠原は戸田会長の行動に感服し、敬愛の情を抱くに至るのである。
 ここに小笠原の書いた、昭和三十年五月二十五日発行の『日蓮正宗入門』という本がある。この前書きで創価学会および戸田会長を評し、次のように記している。
 「その信徒の強烈なる、その抱負の偉大なるため、永年沈衰してゐた本宗も俄に活気を帯び生き吹き還すに至り、今や全国で正宗信者の無い土地は無く広宣流布の魁をなすに至つたことは、只管ら感激の外はありません。自分は不徳にして一時調子に乗りその為に学会と争論の不幸を醸した事のありました事は、誠に遺憾の至りでありましたが、翻然大悟逆即順の筋目を辿り爾来我宗門の人とは宜しく学会精神を躰得し、それを基調として進行せざるべからずと提唱するに至りました。かく言ひますと、之れは諛へる者と評せらるべきも、道理と実際の指す所でありますから仕方ありません」(一部抜粋)
 戸田会長の偉大さの一分を証明する結末であった。小笠原は昭和三十年十二月三日、八十歳の生涯を閉じた。小笠原は晩年にあっては創価学会の折伏を賛嘆し、協力を惜しまなかったということである。小笠原の葬儀にあたり、創価学会青年部は香典として一万円を送った。
 小笠原の覚醒は創価学会青年部の強折によるところが大きい。小笠原の一生をたどり、戦時中の神本仏迹論、狸祭、晩年を思うとき、戸田会長の偉大さ、仏法の不思議に思いが至るのである。
●トップページ > 第1章  前へ  次へ