第1章 謀 計 発 覚


 第44号  1991年2月13日

日蓮正宗自由通信同盟

猊下の怒りを背景に僧侶は創価学会を圧迫した
師子身中虫は勢いづきマスコミは記事を捏造した
 〈逢難シリーズ・第4回〉

 狸祭事件に対する日昇上人猊下の怒りは相当なものがあったと伝えられる。『大日蓮』の小笠原の僧籍の復帰を捏造した記事なども、庶務部のレベルでできることではない。
 当然のことながら、創価学会を罰するという猊下の強い意志のもとに、さかのぼって急きょ出された僧籍復帰の特赦と思われる。
 この猊下の激昂のさまは、宗内に次々と伝わった。『大日蓮』の“虚構”の特赦発表の後、宗内で一段と学会批判の勢いが増す。
 大阪、京都、奈良、兵庫、滋賀などを布教区とする日蓮正宗の第八布教区は宗務支院総会を開き、十二名の住職が連名で、学会の行動を批判する決議をおこなった。その決議文の一部を紹介する。
 「一、宗建七百年の最も慶祝せらるべき大法要中、然し神聖なるべき管長法主上人猊下の御書講中本事件を起し、尚且つ清浄なる山内を汚し深信なる全国各檀信徒に対し信仰の動揺を與へ時と処とを撰ばざる行為は事の善悪如何に関らず天人共に許さざる所と断ず。
 二、本不祥事件は創価学会対小笠原慈聞師との個人問題でなく宗務当局を無視したる行為は宗門全僧侶及び檀信徒に対する最大の侮辱と断定する」
 大謗法かつ破仏法の小笠原の責任は一切問わず、創価学会のみを追及する一方的な決議であった。要は信徒の分際で僧侶の誤りを責めることはけしからんということに尽きる。
 五月二十三日には小笠原がパンフレットを出している。この中で小笠原は、狸祭事件で戸田会長らに暴行を受けたなどと事実を歪曲し、告訴の意志表明をしている。また神本仏迹の邪義についても、
 「戦時中に私がこの神本仏迹論を取り上げたのは、この理論を楯に日蓮宗各派取ツチメルに実に恰好の資料となると考えたからであります。然るにこの本意を知らないで、本宗内から小股を取られたのは遺憾千万であつた」
 と開き直っている。また学会側の主張する、小笠原が戦時中に大石寺を身延に吸収させようとしたということについても、
 「この問題は見当違いの言いがかりである。私は身延を大石寺に引張り込む算段であつたが、皆々様が不賛成で成り立たなかつたのである」
 「戦時中は仕方なく国策に順応するのが国民の義務という。私もこの見地から合同も止むを得ぬ、もつとも戦後はいずれ元へ戻る。その時には身延寺から沢山の御土産を持つて帰る心算であつた。本宗の正法正義はそうなくてはならないからである」
 などと、言い訳にもならない世迷いごとを述べている。
 時の日恭上人猊下を特高に不敬罪で検挙させ、その後で自分が一切を支配しようと画しておきながら、戦後はそのように開き直ってみせる。このような最低の人間も、法衣を着れば僧侶として信徒は敬わなければならない。
 狸祭事件がなければ、のうのうと大僧都として信徒の上に立っていたのであるから恐ろしい。日蓮正宗の中には仏法を規範とした正邪は存在していなかった。実際にあったのは僧侶と信徒の差別だけであったと言える。この後、記述する事件の諸相はそのことを裏づける。
 六月一日には『読売新聞』(静岡版)が創価学会に関する捏造記事を掲載した。見出しは、
 「会長の入山禁止 大石寺前管長暴行事件 創価学会に断 元日共党員が指導? 本山と対立・会員二万の学会」
 といったものであった。当時、日本共産党は破防法適用団体として非合法化されていた。昭和二十五年六月の朝鮮戦争勃発、同年七月のレッド・パージに続き、狸祭事件の直後の五月一日にはメーデー事件も起きていた。
 この世情を背景にして、学会に共産党員が入り込んでいるかのように報道させ、学会を弾圧させようとした者がいた。その者の流した操作情報に『読売新聞』が乗っけられたのだった。読売新聞東京本社は学会の抗議を認め、静岡支局を訪ねるように述べた。学会は支局を訪れ事情を正した。
 根気強い創価学会側の真相究明の作業によって操作情報を流した者が明らかになり、その人物が謝罪したのは一カ月余りも経った七月に入ってからのことであった。
 その真相究明の作業が続けられているあいだにも、宗内の状況は創価学会にとって、どんどん不利になっていった。
●トップページ > 第1章  前へ  次へ