第1章 謀 計 発 覚


 第42号  1991年2月11日

日蓮正宗自由通信同盟

僧籍にないことを確認されていた小笠原が
事件の「直前」になぜ急に僧籍に復帰したのか
 〈逢難シリーズ・第2回〉

 昭和二十六年五月三日、東京・墨田区の常泉寺で創価学会会長の推戴式がおこなわれ、第二代会長に戸田城聖氏が就任した。この式で就任したばかりの戸田会長は、
 「私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする」
 との一大決意を述べた。当時の学会員は五千名程度。
 その際、宗門を代表して式に列席された細井日蓮正宗庶務部長(のちの日達上人)にたいして、戸田会長ならびに柏原ヤス理事(当時)は次のように要望した。
 「戦時中神本仏迹論といふ学説を作つて時の管長上人を悩まし当局に依る学会大弾圧の発端をなした小笠原慈聞という悪僧が今以て宗門に籍をおいている、といふ事である、今学会は全国大折伏に死身になつて起つたのである、どうか御本山においてもかゝる徒輩が再び内部をかきみだす事無く、眞に学会の前途を理解され護つて頂き度いと望む所であります」(『聖教新聞』昭和二十六年五月十日付)
 この戸田会長らの発言に対して細井庶務部長は、
 「現在宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る」(同)
 と、小笠原の存在を全面否認した。
 この細井庶務部長の発言は、宗門全体の意向を受けたもので、決して単独で判断なされたものではないと思われる。というのも、先述した(本紙第41号)推戴式に先立つ五月一日付の『聖教新聞』に掲載された、ある信者の小笠原の僧籍復帰を示唆する記事について、宗務院庶務部はわざわざそれを否定する「お断り」を、昭和二十六年五月三日付で『大日蓮』(日蓮正宗機関誌)の五月号に発表しているからだ。

  ◎お断り
  五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告訴し日蓮正宗を解散せしめやうとした坊さんが総本山に居る旨書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りません事を明かにして置きます。
    昭和二六、五、三 
宗務院庶務部

 このことが後に起きる狸祭事件の伏線となった。
 一年後の昭和二十七年四月、総本山大石寺において宗旨建立七百年慶讃大法要(以下立宗七百年大法要と略す)がおこなわれた。日蓮大聖人が建長五年四月二十八日に立宗を宣言されて七百年を数えるに至ったことを祝う大法要であった。
 創価学会はこの立宗七百年大法要を記念し、『日蓮大聖人御書全集』を発刊した。また四千名規模の登山をおこない、大法要を荘厳ならしめた。この立宗七百年大法要の最中である四月二十七日、牧口会長の墓前で、小笠原は謝罪文(本紙第41号に紹介)を書くのである。
 この翌日、創価学会青年部有志は、本山塔中理境坊の門前に告文を発表した。

       告 !!
 戦時中軍部に迎合し神が本地で久遠元初自受用身仏は神の垂迹也との怪論を以て清純の法澄を濁乱し創価学会大弾圧、初代会長牧口常三郎先生獄死の近因を作したる張本人小笠原慈聞今日厚顔にも登山せるを発見せり、依つて吾等学会青年部有志は大白法護持の念止み難く諸天に代つて是非を糾したるもこゝに小笠原慈聞の謝罪を見たり、依つて今後の謹慎を約して放免せり、狸祭の由来顛末くだんの如し
   立宗七百年記念大法会の日
創価学会青年部有志

 しかし宗門側は、この小笠原に対する学会の直接行動に非常に強い拒否反応を示した。
 まず一つは、大法要中に騒ぎを起こしたということがいかにも許しがたい、二つは、神本仏迹が邪義であるとしても、その当否を判断するのは法主の専決事項であり、信徒の立場で僧を問い糾すことは、その法主の権威を踏みにじるものである。三つは、法衣を着た者は猊下の法類である、それを信徒の立場でいじめるのか、といったことなどが問題とされた。
 だが学会側から見れば、これはおかしなことである。先述したように、一年前の戸田会長就任の際、宗門は小笠原は僧籍にないことを正式表明していたのだ。従って、上記の二、三の事由は該当しないと考えられる。
 ところが摩訶不思議なことに、小笠原は立宗七百年大法要の直前の四月五日に擯斥処分を免除され、僧籍を回復していたと宗門より発表されたのである。それも事件後の四月三十日に印刷されたとする『大日蓮』に発表された。この『大日蓮』は五月中旬頃に、檀信徒に配布されたが、創価学会側は、その『大日蓮』を見て意外な事実を初めて知ったのであった。
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