地涌選集

日蓮正宗自由通信同盟

不破 優

一章 謀計発覚ぼうけいはっかく

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第41号

発行日:1991年2月10日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

創価学会は小笠原慈聞の僧籍への復帰を
気配として感じ宗門の将来を案じて追及を始めた
〈逢難シリーズ・第1回〉

今号より「逢難」シリーズを掲載します。「逢難」というタイトルは「法華行者逢難事」にちなみました。シリーズは昭和二十六年、二十七年の狸祭事件の前後を始めとして、その後、昭和二十五年から終戦直後の二十一年までさかのぼり、その間の小笠原慈聞の動向、僧籍復帰について述べます。その後、戦中の小笠原の行状について記述し、それを終えた後、創価教育学会の活動、弾圧などに触れます。

この「逢難」シリーズによって、創価学会が仏意仏勅の団体であることを歴史的に裏づけてみたいのです。あくまで試論ですので、諸賢の補筆訂正を仰ぎたいと思います。

なおこの『地涌』の性格上、シリーズ掲載の途中で、タイムリーなものも書きたいと思います。「逢難」シリーズに挿入される形で時事的な記事が割り込むことになります。読者の方々に便宜を図るために、タイトルのあとに逢難シリーズ・第一回、逢難シリーズ・第二回と連番を打ちますので、それを目安に、連続物だなとあらかじめ了解して読んでください。

まず「逢難」シリーズの始まりとして、宗旨建立七百年慶讃大法要における狸祭事件の隠された真相を、当時の文献、資料をもとに追ってみたいと思います。

「狸祭事件」とは、宗旨建立七百年慶讃大法要のおこなわれた昭和二十七年四月二十七日の夜に起きた事件で、この時、創価学会青年部は、日蓮正宗の「僧侶」(学会側は僧籍にあるとは思っていなかった)である小笠原慈聞に詫び状を書かせた。

詫び状は創価学会青年部に戦中の邪義を追及され、牧口常三郎創価学会初代会長の墓前で、小笠原みずから筆をとって書いたもの。以下はそのとき書いた謝罪文の全文である。

『聖教新聞』(昭和27年5月10日付)に掲載の小笠原が牧口会長の墓前で書いた「謝罪文」

『聖教新聞』(昭和27年5月10日付)に掲載の小笠原が牧口会長の墓前で書いた「謝罪文」

謝罪状

私の神本仏迹は盲(ママ)説である日蓮大聖人様の清浄なる法門を乱しました事は誠にもつて外道の極み日蓮正宗内の獅(ママ)子身虫なる事を深く御詫び申し上げると共に今後の言動を慎しみます。

昭和廿七年

四月廿七日

小笠原慈聞

日蓮大聖人様

この謝罪の背景には、小笠原の戦中における言動がある。小笠原の戦中の暗躍は、まぎれもなく昭和十八年七月の牧口会長(当時)、戸田理事長(同)ほか十九名の創価教育学会幹部逮捕の近因となったのである。従って、獄中死した牧口会長を師と慕う戸田第二代会長にとっては、小笠原は仇敵であったのだ。

小笠原は戦中、神本仏迹論という時流に迎合した邪義を唱え、果ては日蓮正宗を日蓮宗(身延派)に合同させようと策し、その成功の暁には、みずからが日蓮宗の宗務総長、大石寺の「貫首」あるいは清澄寺の住職になるとの密約さえ得ていたとされる。その野望を実現するために、時の猊下であった日恭上人になんとか不敬罪の罪を着せ逮捕させようと計った。

とりあえず日恭上人の逮捕はまぬかれたが、日蓮正宗は、弾圧を恐れるあまり、謗法厳戒の禁を破りますます神道を容認する羽目になった。宗門としては昭和十七年九月十四日、小笠原を擯斥処分にしてみせたものの、小笠原は時の大政翼賛運動などの応援も得て、いっそう執拗に、また陰険に野望の実現を計ろうとしたのだった。

この処分直後、国家権力の介入を恐れた宗門は、伊勢神宮の遥拝の宗務院通達を、昭和十七年十月十日、檀信徒宛に出すことになる。

この小笠原の策謀こそまさに、戦中の宗門謗法化にはずみをつけ、創価教育学会弾圧の引き鉄になり、ひいては総本山大石寺の大火、日恭上人の焼死に至るまでの総本山荒廃の原因となったのであった。小笠原こそは、ひとり創価学会のみならず日蓮正宗においても、本来は許すべからざる仏法中の怨であったのだ。

昭和二十七年当時、戸田会長から見れば小笠原は、過去を謝罪させるということもさることながら、将来の宗門を考えると断じてその根を断ち切らなければならない存在として映っていたと思われる。

話は一年ほど前にさかのぼる。昭和二十六年五月一日付の『聖教新聞』は、ある信者の話として、小笠原に関する記事を掲載している。

「あの時の事を振返つてみれば○○○○という悪坊主あり、石山を身延に売りつけ、自分は清澄寺の住職になる条件で、水魚会とかを牛耳って、なんとか仏説というような妙な学説で時の政府にこびて日恭猊下をいじめたそうだ。そんな坊主がまた石山にいる。それがために創価学会の牧口先生も難を受けたらしい。猊下も御気の毒である。一国の諫暁を後廻しにして一山の守りを固うせねばならない程の状態であつた。これが大聖人様の御本意か。当時の坊主も坊主ならば信者も信者だ」

ここに書かれた石山とは大石寺のことである。この小笠原に関する記事は、二日後におこなわれた創価学会会長推戴式での戸田城聖の発言へとつながる。

家族友人葬のパイオニア報恩社