地涌選集

日蓮正宗自由通信同盟

不破 優

一章 謀計発覚ぼうけいはっかく

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第37号

発行日:1991年2月6日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

裁く資格もない者が僧というだけで傲然と信徒を処分する
僧侶の罪は見逃され、厳しく裁かれるのは信徒ばかりだ

登山会を発足させ、大折伏を敢行した戸田城聖創価学会第二代会長の戦いがなければ、本日のような大法弘通の時を迎えることはできなかった。これは僧俗ともに異論のない評価である。

ところが昭和二十七年六月二十八日、日蓮正宗宗会は戸田会長に対し、大講頭罷免、登山停止などの処分をおこなった。先の四月二十七日の宗旨建立七百年慶祝記念法要の際、戦中に神本仏迹を唱えて日蓮正宗を存亡の危機におとしいれた小笠原慈聞に、創価学会が詫び状を書かせたことを問題にし、処罰したのである。要するに詫び状の是非ではなく、僧籍にあるものを直接、詰問し謝罪させたことを問題にしたのだ。

その決議文の一部を以下に紹介する。

「一、大講頭戸田城聖氏は本宗々制第三十条を無視し、本年四月二十七日本宗僧侶小笠原慈聞師に対し計画的と見做される加害暴行をし、記念法要中の法主上人を悩まし奉るのみならず、全国より登山せる旦信徒に信仰的動揺を与えたる事件は開山以来未曾有の不祥事である。依つて今後集団、個人を問はずかかる事件を絶対に起さざる事を条件とし左の如き処分を望む。

一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと

一、大講頭を罷免す

一、戸田城聖氏の登山を停止す」

なお戸田会長が暴行を加えていないことは、本人みずから証人の名前(僧侶三名)を挙げて上申したにもかかわらず、審問もされないまま否定された。まさに一方的な処分であった。

この戸田会長処分の決議には十五名の宗会議員が全員賛成している。

宗会議員の名前の中には、秋田慈舟、渡辺慈海、柿沼廣澄などの名前が確認できる。

秋田慈舟は、本紙第36号に詳述した、総本山大石寺の観光地化を積極的に推進した人物である。いかに食べるため、あるいは総本山復興のためとはいえ、正宗僧侶としては実に情けない企画であった。だがこれも、戦中の渡辺のやったことに比べればご愛嬌といったところだ。

渡辺慈海は今さら断るまでもないが、戦争中は日蓮正宗報国団の副団長、団長を経た人物で大政翼賛運動の最高責任者の一人。戦争責任を追及されてしかるべき人物である。また当時、庶務部長、総監を歴任しており、日蓮正宗の神道容認の大謗法の責任者である。さらに最も問題にされるべきことは、昭和十八年六月、牧口会長以下学会幹部に神礼を受けるように大謗法の申し渡しをした張本人でもあることだ。

柿沼は戦中の『大日蓮』の常連執筆者で、僧俗を戦争に駆り立てるべく鼓舞する文を書きつづけていた。

昭和十七年の元旦に書かれた、柿沼の「宣戦布告の大詔を拝して光輝ある元朝を迎ふ」という文の一部を紹介する。冒頭で柿沼は見事なまでの侵略戦争賛美を謳い、つづけて日蓮大聖人の御文をひいて僧俗を戦争へと煽っている。

「恐懼吾等は先帝陛下より立正と諡号を勅宣あらせられた大聖人の門下である。『日蓮は日本第一の忠の者なり、肩を竝ぶる人は先代にあるべからず後代にもあるべしと覚えず』といはれた宗祖の門流である。文永弘安の二大役を前にしては『少しも妻子眷属を憶ふことなかれ権威を恐ることなかれ』と大聖人より戒められた弟子檀那の徒である。大詔を拝して東条内閣総理大臣は『帝国の隆替東亜の興廃正にこの一戦にあり、一億国民が一切を挙げて国に報ひ国に殉ずるの時は今であります』と血涙を以ての放送は今尚吾等の耳朶にある。正に然り。『命限りあり惜むべからず』の聖言を実践するは此の時である。日蓮正宗の門下諸君、『一閻浮提第一の本尊此の国に建つべし』の大聖の念願に殉ずるも正しく今の時である」

侵略的な国家神道の幹に日蓮大聖人の教えを接木するような馬鹿げたことを、日蓮正宗の高僧は戦中において行っていたのであった。

柿沼を例に出したのに他意はない。他の宗会議員においても大同小異のことであったと思われる。

さて事件は、小笠原が戦中、神本仏迹を唱えたことに端を発している。戦中における本宗と国家神道との関係がこの事件の根っこにあるのだ。これを裁くのに、戦時中、神道を容認した者たちが、神道を認めず神札を拒否し投獄された者を裁くのはいかにも理不尽なことである。

宗会議員もそのあたりのことには触れられたくなかったようだ。柿沼の次の発言によって、大勢の空気を察することができる。

「単なる法議法論の理の法門を弄することをやめよう。納得のゆく人柄、所謂僧侶としての品位の欠如が実はこの不祥事件の原因であると、吾と吾が身を鞭うつものである」(『大日蓮』昭和二十七年七月号所収)

神本仏迹論を云々することを避け、小笠原の「品位の欠如」に事件の原因を絞り込もうとしているのだ。

仏法の本義からいえば、裁く者と裁かれる者が転倒している。戸田会長の無念さが伝わってくる。

いつもながら日蓮正宗の場合、厳しく裁かれるのは信徒である。僧侶の場合はほとんど不問に付されるのだ。体面を保つことは出家の共通利益なのである。

それは戦中の宗門あげての大謗法に象徴される。いまだ誰も罰せられなければ懺悔もなされていない。戦中にあって日蓮正宗の謗法を進めた宗内指導者が、戦後も同じように指導者として居すわったのだ。僧侶にある特権意識がなくならないかぎり、同じ過ちは繰り返され、改められることはない。

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