第1章 謀 計 発 覚


 第19号  1991年1月18日

日蓮正宗自由通信同盟

大橋敏雄が国会に提出した「質問主意書」は山崎正友の代作
藤原行正、押木二郎、段勲記者がそれをバックアップ

 昭和六十三年九月二日、大橋敏雄衆議院議員(当時)は原健三郎衆議院議長宛に、「宗教法人『創価学会』の運営等に関する質問主意書」を提出した。
 質問の冒頭は次のように書かれている。
 「宗教法人の運営も公共の福祉に添うものでなければならず、またその義務を負うものである。宗教法人がこの義務に反して、その目的を著しく逸脱するなど、自由権を濫用すれば法の保護が受けられないことは当然であるし、またそのような場合には、所定の手続きを経て、裁判所が解散を命ずることができるようにもなっている(宗教法人法第八十一条)。最近の各種報道が示すように、国民は、宗教法人創価学会の運営や、学会の池田名誉会長の行動に対し疑念を抱いている」
 以上のように創価学会が反社会的団体であると規定し、解散の必要性すらも匂わせた質問書を、大橋は国会に出した。そして、「政府の誠意ある回答を要望する」(同質問主意書)としている。
 このことについて大橋敏雄は、平成二年一月に出した自伝『“吹けば飛ぶ男”の奮戦記』(人間の科学社刊)の中で次のように書いている。
 「私は、巨悪に対して見て見ぬふりをしている権力構造に、疑問と怒りを感じました。私は国会で池田問題を論議すべく、昭和六十三年九月二日、国会に『国会質問主意書』を提出、同時に『月刊現代』十月号に『決死の国会質問主意書』として発表、世論の喚起を訴えました」
 ところが大橋本人が、みずからの実績として自伝の中で誇っている、この「質問主意書」は大橋自身が書いたものではない。
 書いたのはなんと山崎正友である。国会議員が、有罪判決を受けている刑事被告人に国会提出の書類を代作してもらったのだ。創価学会が山崎の恐喝の被害者でありその告訴人であることを考えると、大橋のやったことは非難されてしかるべきだ。
 山崎正友は、創価学会に対する恐喝事件で懲役三年の判決を受けて上告している身である。国会で創価学会問題が取り上げられ、うまくいって池田名誉会長の国会証人喚問まで持ち込めればと画策し、大橋らを焚きつけたものであろう。
 山崎としては、創価学会の存在が国会やマスコミで問題にされることは、単に恨みを晴らすといった次元だけでなく、それによって刑が軽減される、あるいは執行猶予付判決で済むという実益があるのだ。だからこそ必死で画策するのである。
 山崎は、藤原行正、大橋敏雄を焚きつけて、この「質問主意書」で騒がせる一方、裏で右翼などのルートから創価学会に取引を申し込んでいる。創価学会側が、山崎の裁判で前言をひるがえして恐喝の事実がなかったとしてくれれば、藤原、大橋問題は片づけるといったものだ。
 創価学会側は相手にしなかった。また政府も九月十三日、答弁書を原衆議院議長に送付し、創価学会に問題なしと回答、大橋の質問にとりあわなかった。
 ここにおいて、山崎正友、藤原行正、大橋敏雄の野合による謀略は破綻した。
 藤原はこの山崎と組んだ謀略を、池田名誉会長を倒し息子を創価学会の会長に据えようという、とんでもない計画の一ステップとして考えていたようだ。藤原の場合は、常に創価学会に対する覇権意識が根底にあり、やることも他人から見れば実にグロテスクそのものである。
 この大橋の「質問主意書」騒ぎの中で、いつものことながら藤原行正の部下である池田問題対策事務所の押木二郎が、マスコミに大橋の行動を誉めそやしていた。押木は「質問主意書」が山崎の作品であることは当然のことながら知っていた。それでいて平然とマスコミに操作情報を流していたのだ。
 またもう一人、マスコミでこのことを書きまくっていた男がいた。これもいつものことながら段勲である。
 段は昭和五十五年以来、山崎正友の家に出入りし、ひんぱんに会い連絡を取りあっている。段は、「質問主意書」が山崎正友の作ったものであるといった、これらの事情はすべてわかった上で動いていたのではないかと思われる。段の「ニセ特別御形木御本尊」事件のデッチあげ報道の状況などを見ると、甘んじて山崎の片棒をかついでいると判断するのが妥当だ。
 もし知らなかったと言うのであれば、記者としては無能のそしりをまぬかれない。その場合でも、今後も山崎の操り人形として動くことには変わりはない。
 それにしても今、宗門は藤原、大橋、押木、段らを頼りにして何をしようとしているのだろうか。広宣流布に逆行していることだけは確かだ。
●トップページ > 第1章  前へ  次へ