池田問題対策事務所は、藤原行正が創価学会攻撃をするための小道具として作ったものだ。この藤原行正、大橋敏雄の創価学会への造反は次のようなことが発端で、実行に移されることとなった。
昭和六十三年一月、大橋は胆のうの手術をしたが、
「術後にガスが出ない、便が出ない、腹がパンパンに張って、死ぬような苦しみを味わったわけです」(月刊『文藝春秋』昭和六十三年六月号 大橋敏雄の手記)
といった状態になったと本人が告白している。大橋は長年信心してきた自分がここまで苦しむのは、藤原行正が指摘していたように、創価学会での信心がおかしいのではないか、なかんずく池田名誉会長の指導が間違いではないかと思ったのだ。
「もしも病気が治ったら、私は名誉会長の謗法、信心上の誤りと徹底的に闘いますと御本尊に誓ったわけです。信心のない人は不思議におもわれるでしょうが、その誓ったとたんにガスが出た。そして便が一時間も出て、腹の痛みがウソのようになくなりました」(前掲誌)
大橋は創価学会批判に至ったきっかけをこのように述べている。
その信念をもって藤原行正と共闘し、創価学会批判ののろしを上げたわけだ。
ところが三年後の今はどうなっているか。
大橋は今、藤原行正を恨んでいると伝えられる。それは藤原行正が池田名誉会長を倒し、息子の範昭を創価学会の会長にしようとする――、その野心に利用されただけだったということがわかったからだという。
ために現在、大橋は自分の故郷である九州の福岡県に帰っている。
また息子の賢治郎夫婦は、藤原の指揮下にあった池田問題対策事務所での活動の最中、離婚してしまった。
大橋の造反劇の当初、真偽のほどは確かめようもないが、息子の嫁に対して、離婚の圧力が創価学会員の婦人たちからかかったが、息子夫婦はその圧力に負けず仲よく創価学会を正すために戦っている――と、大橋らは週刊誌に登場してまで宣伝していた。
ところが池田問題対策事務所で活動しているうち、夫婦の間に不信の芽が育ち、それが引き金となり離婚した。また大橋は、嫁と藤原の息子範昭との仲も疑っていると伝えられる。
大橋は活動の当初、行正の息子である藤原範昭が創価学会の次の会長たるべき人と心底思っていた。それが活動の過程で単に世間知らずのホラ吹き男とわかり、幻滅したようだ。
藤原行正には、「お前は一年で池田を倒すといっていたのに倒せなかったではないか。君は必要ない」と、活動が閉塞状況にある責任の一切を背負わされ、用済みとされた。単純で思い込みの激しい男は、利用されただけだったのだ。
大橋は地元福岡県の法霑寺の法華講員として、昨年十二月に秋山孝教住職によって迎えられた。その住職は大橋を迎え入れた三日後に亡くなった。
さてその大橋だが、かつての後輩である池田問題対策事務所の押木二郎事務局長が昨年十二月二十五日に日顕上人猊下に「お目通り」したことに、憤慨している。
「勤行もしていない押木二郎が、どうして猊下に会えるんだ」
と怒っているという。
そもそも池田問題対策事務所といえば、なにやら創価学会の改革を求める市民運動的な組織に思えるが、その実態はまるで違う。
同事務所の常勤者は、まるまる藤原行正のおかかえだったのだ。藤原の私兵である。殺し屋を雇ってでも池田名誉会長を倒し、息子の範昭を創価学会会長にしようとする藤原の野望の実現のための私兵である。その野望の実現のおこぼれにあずかろうとして集ったのが押木らである。
そこには信仰心のかけらもない。彼らは藤原行正の命令に従い創価学会を攻撃することによって、これまで生活の糧を得てきたのだ。
それが猊下の御指南を受け、突然「本山外護」などといい、独自の講中の結成をめざして活動しはじめたのだ。押木らにとって、かつぐのは藤原行正でも猊下でも誰でもいい。マスコミに名前が出、いやがらせをして愉快犯的な悦楽を得、それでスポンサーにおこぼれをいただければよいと見える。
そのような男に信者の獲得を依頼した日顕上人猊下に対する失望は、宗内に急速に広がっている。
