『週刊文春』(平成三年一月十七日号)に「法主極秘会見『池田大作をクビにした真意』」という段勲の記事が載っていることは、前号で触れた。
その『週刊文春』の記事の中で、段は次のように述べている。
「『インタビュー』でも『取材』でもないから、法主の談話を一方的にリークするのはジャーナリストのモラルにかかわることに相違ない」
段は、日顕上人猊下、兄の高橋公純本応寺住職との共同防衛ラインを守ろうと体裁を作っている。要するに兄の高橋公純の「お目通り」に、たまたまついていったまでという偽装を守っているのだ。
ところが段は、先に引用した文のように、「インタビューでもないのだから本来は、公表できないのだが…」と述べたうえで、
「あえて公にせざるをえない理由が生じた。事情が変ったのだ。その理由は後述する」
として、本紙第3号が猊下と段の会った時の内容を捏造し、学会側がそれを真に受けて動いたから公表せざるを得なくなったと主張しているのだ。
それでは、「法主極秘会見『池田大作をクビにした真意』」というタイトルはなにを意味するのか。
ここで、週刊誌等の制作過程について説明しておこう。
まず記者が原稿を書く。その原稿を編集部の者が読んでタイトル、中見出し、写真などを用意する。また広告の手配も重要なことだ。タイトルが決まれば、デザイナーの手によって広告原稿が作られる。
この広告原稿から広告を作るのは、週刊誌の本文を作るよりも時間がかかる。広告原稿を元に版下を作成するのは実に手間のかかる仕事だ。印刷もこれまた大変。ましてそれが電車の中づり広告となると、多色刷りとなる。技術的にも精密なものが要求され、時間もいっそうかかる。
本文は、「初校」「再校」という二つの過程で、編集者側が文字などの間違いを正す「校正」をし、あとは印刷所に任せるということで「責了」にする。だがそれは通常の場合で、時間が足らなくなると「初校」で「責了」にしたり、はなはだしい時は原稿を出すだけで「校正」は一切せず、印刷所に任せっきりというケースもある。「原稿校了」といわれる。印刷所側は嫌うが、時間がなければこんな荒っぽいこともやる。
週刊誌の制作は、片時も油断できない分刻みの勝負なのだ。
さて、そこで週刊誌の記事内容が、ギリギリのところで変更を余儀なくされたらどうなるか。一番簡単なのは本文の変更である。しかし、タイトルだとか電車の中づり広告は、変更のできないまま出されることになる。
では今回の場合はどうなるか。『週刊文春』には、
「創価学会側は『怪文書』にワル乗りして法主をはじめ小生や本誌批判を展開(『聖教新聞』七日付)しているが、笑止千万といっておこう」
と書いている。七日付の『聖教新聞』を引用しているのだから、明らかに段の記事は、一月七日以降に書かれたものである。この『週刊文春』は一月九日発売である。全国への配送があるので、八日にはできあがっていなければならない。製本もあるから、七日が本文差し替えのタイムリミット。となればこの日に当記事は書かれたと特定できる。
しかし、「法主」との「極秘会見」は十二月二十五日である。それを締切当日、記事にすることなどありはしない。
広告やタイトルは、時間がないので「法主極秘会見」のままにし、本文だけ共同防衛ラインにそって書き直されたのだ。
本人が言っている「あえて公にせざるをえない理由が生じた」とは真っ赤な偽りで、もともとは「法主極秘会見」記そのものが出る予定だったと考えるのが自然である。「公にせざるをえない理由」ではなく、隠さなければならない理由が生じたのだ。
それにしても「独占スクープ」を逃してまで、猊下、高橋、そして段の共同防衛ラインに理解を示した『週刊文春』編集部とは、不可思議な編集部である。タイトルにつられて『週刊文春』を買った読者こそ、いい迷惑だ。
